「しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」」ルカの福音書 10章29節

永遠のいのちを受け継ぐためにはどのようにしたらよいのかと、イエス様に尋ねたのは律法の専門家でした。
正しく律法を守ってきたと、自負するこの人は、続いて質問をしましたが、そこで彼が間違っていることが露呈してしまいます。

この質問は「隣人」を文字の上でしか捕えていないから出て来たのです。
隣人は、誰かが自分の側に置いた時に、隣人になるのではなく、自分から隣人になっていくのです。
イエス様が、たとえ話に出されたサマリア人も、律法の専門家ならば、付き合いもしなかったし、隣人だとは想像もしなかったはずです。
ですから、彼には隣人が分かりませんでした。
そして「隣人を愛せよ」という律法も文字の上でしか守ってこなかったのです。

もう一つ間違いがありました。
「自分が正しいことを示そう」としたことです。
神の前に、私たちは正しい者ではなく、神のあわれみと赦しを求めるべき者です。
正しさではなく、罪を認め、罪に敏感な者であるべきなのです。
正しさを示すとは、結局のところ、誰かと自分のことを自分で量っているのです。

それよりも、胸を打ちたたいて、罪深い自分をあわれんでくださいと差し出せる者でいたい。
そなような人を主は「友よ」と呼んでくださり、隣人が誰かを知ることができるのだと思います。

シャローム