「私がファラオのところに行って、あなたの御名によって語って以来、彼はこの民を虐げています。それなのに、あなたはこの民を一向に救い出そうとはなさいません。」 出エジプト記 5章23節

モーセがファラオのところに行って、イスラエル人を解放して、主を礼拝させてくれるように申し出ました。
しかし、ファラオは主など知らないから、行かせないと拒絶します。
それどころか、イスラエル人がなまけていると言って、レンガ造りの苦役をそれまでよりも酷いものへと変えていったのです。
民を困ってしまい、ファラオに申し出ますが、もちろん拒絶されます。
それなので民はモーセに文句を言うのです。

モーセは、民の訴え、文句、愚痴といった内容を聞くと、主の元で祈るのです。
モーセの語った前半は、ファラオのおこなった事実です。
しかし、後半はモーセの主に対する文句というのか自分勝手な訴えです。

主が救い出してくれない。
それも、一向に救い出してくれない。

どうしてなのか。
自分は、主のことばの通りにファラオに訴え出て語ったのに、何故、救い出してくれない。

苦しめられれば大変です。辛く悲しいのです。わかります。
ですが、だからモーセに文句を言うのですか。モーセもまた、主に文句を言うのですか。
悪いのは主ですか。

主は、救い出すと語られた。それは約束です。
ですが、主は、その途中、途中のことを、細かく教えてはくださらない。いいえ、教えてくださっても、私たちには分からないことが多いのです。

約束を受けたのに、待つことができないのが私です。
主を信じる信仰に立った忍耐とは、このような時に求められるものなのです。
一向に救い出そうとしていないように、見えるのは私の目です。しかし、主の目には計画は進んでおり、救い出すと語られた約束は、実現に向かっているのです。

ただ黙って忍耐するのは苦しいのも事実です。私は弱い。
それなので祈りましょう。
「苦しいのです」と。
「一向に救いしてくれない」と、祈るのではなく「一刻も早く、救い出してください。」と。

シャローム