「主こそ、私への割り当てです」と 私のたましいは言う。 それゆえ、私は主を待ち望む。」哀歌 3章24節
3章の言葉を口にしている人は、エルサレムと自分を同一化して告白しています。
エルサレムの崩壊は、この人にとっての来るしみそのものです。
そしてその苦しみはとても深い。深く厳しい。
主のさばきと責めが、この人に迫っています。
主は真実な方なので、苦しみが来るのは、この人自身に責任があります。
分かっているのです。
そして、どんなに苦しめられ、辛い時間を過ごしても、この人には望みがあります。
主です。
主を待ち望むと告白できるのです。
「主こそ、私への割り当てです」とは、イスラエル12部族の内の、祭司となるレビ人に対する、おっ地分割時のことばです。
レビ人は、主が相続財産です。
ここでは、そのことを引き合い、主を相続財産として受け取っていることが幸いだと告白するのです。
苦しみが深く悲しみが無くならなくても、主がいてくださることが財産であり恵みであり、救いなのです。
主に見捨てられることはないのです。
ですから、主を待ち望むと告白できるのです。
何も無くても、主が最終的な味方であることが力であり幸いです。
シャローム