「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」 創世記44章33節

ヨセフに銀の杯を盗んだと糾弾されたヤコブの息子たちです。
ヨセフの策略だと訴えたところで意味はありません。
ヨセフの前にひれ伏して、赦しを願い出ることしかできません。
ここではもう、ユダ以外の兄弟の言葉と行動は何一つ記されません。
長男のルベンの姿などまったくみえません。
父ヤコブに、今回のエジプトへの旅を願い出るときから、ユダが皆を代表し導いています。

この他の兄弟とユダとの違いはいったいなんでしょうか。
38章で、息子のこと、嫁のタマルとのことで、罪を認めて、心からの悔い改めをしたユダなのです。
ユダは、ここでも主の前に誠実におこない、正しいことを父の前でも、エジプトの権力者の前でも正しいことを行おうとします。
そして、それは自分から自分を犠牲として差し出す行為にすべて現われています。
ベニヤミンの代わりに自分の命を差し出すユダです。
この身代わりの犠牲は、後の時代になると、ユダ部族からイエス様が生まれてくださり、十字架の犠牲へと繋がっていくのです。
身代わりの犠牲に現われる最大の愛です。

ユダの、心からの悔い改めと、主の前に誠実に真摯に歩む姿勢は、私たちが倣うべきことです。
そのように歩む者には、主があわれみを注ぎ、助けてくださる。
想像を遙かに超えた主のあわれみを知るのです。

シャローム