「油注がれた祭司が罪に陥って、民が責めを覚える場合には、その祭司は自分が陥った罪のために、傷のない若い雄牛を罪のきよめのささげ物として主に献げる。」レビ記 4章3節 (2017新改訳)

4章は罪のためのいけにえです。
二つの言葉が、4章の中で心に留まりました。
ここにある「責めを覚える場合」と、20節以降に繰り返される「そして彼は赦される」です。

責めは罪と翻訳する場合もあります。
覚えるとは、律法によって客観的に責めに定められると同時に主観的にも責め、罪を自覚することを示しています。
罪を犯した本人が罪を自覚し認めて、いけにえを献げることが大切だということを、教える言葉です。

自分で罪を認めて、律法に照らし罪に定められ、その上でいけにえを自ら持って来るのです。
そのとき、祭司はいけにえの血を道具を使わないで、指を血に浸した上で、振りまくのです。
焼いて煙にし、儀式を終えたとき。
彼は赦されるのです。

律法により、罪が赦されたことが宣言されるのです。
これによって彼は、自分の罪が赦されたことを自覚します。

罪と赦し。
罪に定め、罪を赦すことができるのは、主なる神さまだけです。
罪をおこなうことがない完全に義であり、完全に愛の方にしかできないことです。
そして罪を自覚し、赦されたことを、本人が明確に受け止めることも、同時に大切なことです。
罪を知ることは、赦されるための、最初の一歩です。
シャローム