「しかし、ヒゼキヤがその心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼もエルサレムの住民もそうしたので、主の御怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。」歴代誌 第2 32章26節 (2017新改訳)

この時、何が起きていたのかは、列王記第二の20章に詳しく記されています。
アッシリアの王がエルサレムを攻め取ろうとしてやって来た時に、主は、ヒゼキヤの祈りに答えてくださり助けてくださった。
その祈りも、主の御目にかなうことをしてきましたから、アッシリアの脅威から救ってくださいと言う、涙とともに祈ったのです。
主は、恵みをもって答えてくださった。

しかしその直後に、ヒゼキヤはバビロンの王に対して、自分の豊かさを誇るような行動を取ってしまうのです。
アッシリアの驚異が去り、心が高ぶったと言うことなのでしょう。
それでも、主の御怒りが迫ると、ヒゼキヤは再び。主の前に悔い改めたのです。
それがこの26節の言葉です。こちらは、列王きには記されていない表現です。

主は、私たちを愛して、恵みを注いでくださる方です。
私たちを豊かにしてくださるのです。
しかし高ぶる者には、御怒りをもって臨まれます。
それでも、再び悔い改めてへりくだり、主を求めるならば、主は御怒りをおさめて、回復してくださることを惜しまない方です。

主は、御怒りを引っ込めることを恥とは思われなく、何度でも赦し愛してくださる。
惜しみなく、あわれみ深い方です。

逆境の時には、涙とともに祈り求め。
順境の時には、へりくだって賛美する。
そのように祈り、賛美する人には、いつも全能であわれみ深い神がともにいて助けてくださるのです。
シャローム