「その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。」レビ記 1章4節 (2017新改訳)
出エジプト記が、幕屋の完成を記し、主がイスラエルの民とともにいてくださることを記してて終わりました。
続いて納められているのは「レビ記」です。いけにえの制度、様々な律法、宗教的祭りについて示します。
いけにえをささげ、主を礼拝すること、主に仕えること、主を証しすることで、イスラエルの民は、周辺の国々、民と区別されていくのです。
5章までは「全焼」「穀物」「和解」「罪のための」「罪過のための」いけにえの制度が記されます。
聖なる神さまに近づき、礼拝するためにいけにえをささげます。
その方法が記され、レビ人が祭司としてその奉仕にあたります。
いけにえをささげることが神に愛され、罪が赦される条件ではありません。
最初に神がイスラエルの民を選び出し、契約を結んでくださったのです。
その契約によって選民となった民だからこそ、聖なる神に近づくためにいけにえをささげるのです。
いつも聖なる神を覚え、罪ある者が神に近づき、神との交わりが許されていることを喜ぶためのいけにえです。
愛され、赦されているからこそのいけにえです。
自分が神に愛され、受け入れられていることをいつも覚えるために、傷のないいけにえをささげます。
そして今、私たち新約聖書の時代に生きる教会の民は、イエス・キリストが私の罪の身代わりとなってくださったことを信じるだけで、いけにえをささげる必要はありません。
完全ないけにえとして、イエスがご自身をささげてくださったからです。
今、私たちは、動物のいけにえをささげたり、穀物の初穂を持ってきていけにえとしてささげません。
しかし、ここでイスラエルの民が、一つひとつ丁寧に、主が命じられた通りにいけにえをささげるまったき姿勢を学び、聖なる神さまに近づくことの畏れと喜びを同じ心で受け止めることは大切です。
いけにえをささげると、その煙が空に天に上り、主に受け入れられます。
そのとき、地上は煙、臭い、鳴き声、砂ぼこりがあり、凄まじい状況なのです。その中でささげ、身を置いて礼拝するのです。
自分の身体の全部でそれを感じてささげます。同じように私のすべてで今の礼拝をささげたい。
毎週の礼拝、朝ごとのみことばとの時間を丁寧に大切にしたい。
シャローム