「それから、エリヤに次のような主のことばがあった。」列王記 第1 17章2節 (2017新改訳)

聖書66巻から1つの書を選び、その書を紹介しながら「みことば」を味わっていきます。
66巻をゆっくり読み進めながら、聖書に記された神様の愛について味わっていきます。
今日開いたのは、列王記 第1です。

列王記も、サムエル記と同様に元々は一つの書でした。
一説では、前三世紀頃に、ヘブル語旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたときに、巻物の長さには限界が有り、一つにまとまらなかったので、二つに分けられたと言われます。
第1は、大きく三つの内容です。
1.1〜11章は、ソロモンの治世を記します。
2.12〜16章は、南と北の分裂王国の初期の時代。
3.17〜22章は、預言者エリヤの活躍です。

今朝、選びましたのは、預言者エリヤが、悪王として名高いアハブに主のことばを伝えたエリヤの活動の最初に、主が語られたことを示す言葉です。
続く8節にも同じ言葉があります。「すると、彼に次のような主のことばがあった。」8節。
アハブ王は、16章30節で「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。」と、あるほどの王です。
その政治的治世ではなく、主の前にどのように生きて、主のことばに従ったかどうかが問われた、最悪の王です。

アハブに、主のさばきがあることを伝えたエリヤは、直後にアハブ王から逃れて、川のほとりに住みつき、からすに養われるという、奇蹟を経験します。
この後も、貧しいやもめの家に身を寄せます。
貧しく、最後の小麦粉を使って、エリヤを養ったやもめの家の、小麦粉と油は、主の奇蹟で尽きないという経験をします。
その子どもが病で亡くなったときには、エリヤが、主に祈り求めて生き返らせるのです。

17章の初めは、主に背き、主のことばを聞こうとしないアハブ王と、信仰を失ってしまった人々の中にあって、主のことばを聞き、そのことばに従うことの大切さと、そこに祝福があることを、繰り返して教えます。
「主のことばがあった」とは、ただ聖書を読む私たちに、続く言葉が主のことばであると、紹介する説明文章ではありません。
主のことばが存在し、それを聞くべき私たちに与えられた。
確かに、そこには私たちが聞き従うべき主のことばがあったのだと、強く示すのです。

ソロモン王の豊かで安定した治世の時代。
イスラエル王国が、人々の争う心と、なによりも主のことばを軽んじる指導者たちによって、南と北に分裂した時代。
多くの王が主に背き、アハブ王はその代表とも言うべき悪王、その乱れた治世。正しアハブ王は、周辺国との交渉、戦いでは優秀な王でした。
でも、主の前には、それまでにないほど、主に背き、そこにある「主のことば」を、聞かなかった人なのです。
主に愛されている私たち「人」が、どのような立場、地位、職業、家庭、健康、国、そして時代にあっても、そこに私のために「主のことばがある」のです。

主のことばは、生きています。
主のことばは、剣のように私の喉元にあります。
主のことばは、同時に私の前にうしろにある愛のことばです。
主のことばがあるのです。
私は、そこにある主のことばにどのように応答しましょう。
エリヤの如く、主に従い通したい。

分裂王国は、主に背く人々の姿を示しますが、現代の私たちにとてもよく似ている信仰生活がそこにあります。
王の名前は、覚え難いですが、生きている信仰者の姿が、生活が見えるので、ゆっくりと読んでいくと興味が尽きません。
シャローム