「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」ルカの福音書 2章35節
イエス様が生まれきよめの期間が過ぎたので、エルサレムに上ったヨセフとマリアに対して、シメオンが告げた言葉です。
具体的には、イエス様が人々に裏切られ十字架で処刑されることを示し、その時、母マリアの心が剣で刺し貫かれる悲しみを経験することになるという預言です。
祭司長、律法学者の憎しみ、群衆の裏切り、弟子たちの裏切り。
あらゆる悪意があらわになって、イエス様は殺されるのです。
敵対していた祭司長たちだけでなく、弟子も裏切り逃げ出します。
イエス様のお話を喜んで聞いていた人々も裏切るだけでなく、十字架につけろと叫びます。
人の罪が現われるのです。
人と人との間でならば、罪は隠すことができるのかもしれません。
しかし、神様が私たちとともに生き、ともに歩んでくださるならば、罪は隠し通せません。
宣教の働きを始めた時に、イエス様は、ルカ12章2節で言われました。
「おおわれているもので現されないものはなく、隠されたもので知られずにすむものはありません」
隠し通した罪の先には喜びも平安もありません。
神様の祝福はなく、さばきが待っているだけです。
しかし、心が壊れそうなほどに悲しみ苦しんだとしても、神様の前に罪が現されたならば、それはチャンスです。
神様のあわれみ深さを知り、悔い改めて主の赦しを受けることができるからです。
罪を隠し通すところではなく、あらわにされるところに神様の赦しが届きます。
しかし、マリアの経験した悲しみ苦しみは、私の想像をはるかに超えるものでしょう。
私なら、耐えられないと感じます。しかし、そこに主がともにいてくださるのだと信じます。
シャローム