「主の使いがギルガルからボキムに上って来た。そして言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの父祖たちに誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたと結んだわたしの契約を決して破らない。」士師記 2章1節

私を愛してくださる主は、恵みを、それも溢れるばかりのすばらしい恵みを与えてくださる神様なのです。
その主はイスラエルの子らが、すぐに主を捨てて偶像の神々、バアルなどの名を持つ神々を慕うようになると知っているのです。
それでも主は、主を捨てればさばきがあることを示す前に、最初に「わたしはあなたがたと結んだわたしの契約を決して破らない。」と、約束をしてくださるのです。

主は、裁くぞと警告、脅すような怖い怒りの神様ではなく、愛とあわれみの神様なのです。
その証拠に主は、15節では「主の手は彼らにわざわいをもたらした。〜彼らは大いに苦しんだ。」と、ありますが。
続く18節ではさばきつかさを主が立ててくださり「彼らを敵の手から救われた。〜これは、主があわれまれたからである。」と、あります。
主は、主を捨てて偶像礼拝をし、罪を重ねるイスラエルの子らを見捨ててしまうことはなく、あわれみ注ぎ、助けてくださるのです。

約束を変えないと語ってくださる主は、さばきととも回復と助けという道も残してくださるのです。
怒る神、恐ろしい神どころか、愛とあわれみ神様なのです。

ある少数部族では「神の愛」をその部族の言語で表現するときに「最高に甘い」という、私たちの生活でいうならば最高で最善の他には変えられない最高に甘い素晴らしく美味しいという、言葉を当てて翻訳をしたと聞きました。
私たち人の欠けのある愛ではなく、最高の神の愛とは甘く(もちろん甘やかす溺愛するというのではなく)他に変えられない甘い愛なのでしょう。

背きと罪の人の姿と愛とあわれみの神の甘い愛を士師記で味わっていきましょう。

シャローム