「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。 兄弟たちが一つになって ともに生きることは。」詩篇 133篇1節

ともに生きるとは、ともに住むとも訳せます。
一つところに一緒になって「ただ住む」ということだけでも難しく、それができることへの感謝と恵みがこの詩篇にはあります。
イスラエルの歴史を見ると、エジプトへの移住、約束の地カナンへの荒野の旅、そしてバビロン帝国による捕囚、さらにローマ帝国による支配という過酷な経験があります。
家族が、部族が、国民が一緒なって住むことができない経験があります。
それもとても長い年月のことです。
離れ離れにされる、離散の民という経験を通して、彼らはその真ん中に主がいてくださって一つになって生きることの大切さと喜びを知ったのです。
それは大祭司に主からの特別な油が注がれる時のような恵みです。

私たちも昨年から、ごく普通のこととして一つの場所に集まって礼拝することができない経験をしました。
捕囚の民の困難や痛みとは比べることはできませんが、主を真ん中にして集まれることの喜びと、そこに注がれる恵みと守りが、どれほど豊かで良いものであったのか強く感じました。
主を真ん中にしてとは、信じることを中心にして、主の守り、臨在を中心にして生きることです。
それが私たちをどんなに大きく喜ばせ、深く感謝させてくれるのかを、この一文は教えてくれました。
「なんという」それは比べることができないほど大きな喜びということです。
この幸せ、楽しさを覚えて今日一日を歩みたい。
同じ心と信仰で歩む兄弟姉妹がいるのだから。
シャローム