「また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。ここに神の憤りは極まるのである。」 ヨハネの黙示録 15章1節
自分の願いを叶えるために、自分にとって都合のよい神々を作り出して信じる人がいます。また、神を信じない人もいます。
その人たちの心には、神には神の意思、神の御心があって、人をさばくことができるとは信じていないのではないでしょうか。
人にとって都合のよい神々は必要としても、神の基準、神の価値観に従うことを願わない心があるように思います。
聖書はまさにそれを罪、原罪と教えるのです。
そして罪に対して、神が怒りを表されることなど無いと、勝手に思い込み。
神の怒りが源現実に自分の身に起きることとして受け止めないということがあるように感じます。
しかし、ヨハネが神様に見せられているこの黙示録には神の怒りがあります。
ここ1節では「ここに神の憤りは極まるのである」と、記されます。
神は愛を優先されます。
人にあわれみを示してくださり、忍耐強く、私たちが悔い改めて神様の元へ帰ってくるのを待っていてくださいます。
しかし同時に神様は、罪をそのまま放置される方ではありません。
時を支配される神は、さばきの時を定めておられます。
その時が来れば、猶予期間は終わり、神の憤りが極まって、さばきが実行されるのです。
誰もそれから逃れることはできません。
神様が愛してくださっていることを覚えつつ、神の憤りが極まる時があることをしっかり見据えて、地上での日々を歩みたい。
シャローム