「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」 ローマ人への手紙 14章8節

私の人生は私のもので、私自身ももちろん私のものであると、私たちは考えていました。
私の人生、私自身を誰かに任せたりはしない。
私は、私のために生きる。
そう考えてきました。

しかし、イエス・キリストが、私の罪を赦して私を滅びからいのちへと移してくださいました。
既に、私はイエス・キリストのものになっています。
私は私のものだと主張することでかえって私たちは不自由になります。
私がイエス・キリストのものであると信じて生きているならば、私はイエス・キリストの元で自由に生きて、良い業を行うことができます。
誰かのために生きることは不自由なことではないし、幸がないわけでもない。
それがイエス・キリストのために生きるのであれば、その生き方には良いことの他に何があるでしょうか。

私のためにイエス・キリストは死んでくださった。それならば私は、イエス・キリストのために生きるようになるのです。
そして、地上を去る時にも不安もなく、主の元へ行くことができます。

私を私の手から手放すことができることは幸いなのです。
私は、全能の主の御手の中にあり、主の愛の中に生きていることを確信しておきたい。

シャローム