「だから今、確かに知らなければならない。あなたがたが、行って寄留したいと思っているその場所で、剣や飢饉や疫病で死ぬことを。」エレミヤ書 42章22節

バビロンにエルサレムが滅ぼされて、多くの民が殺されたり、捕囚の民として連れて行かれました。
そのとき、残ったわずかの残った民が、エレミヤの元に来ます。
彼らは、エレミヤに主に祈って欲しいと願うのです。
これからの歩むべき道と、なすべきことを告げて欲しいと願ったのです。

このように聞くと、それは正しいことだと思います。
主にこれからのことを尋ね求めているのです。
しかし、そうではありません。
都が崩壊し、主の神殿が崩壊して、わずかに残された者として、真剣に素直に主に尋ねていないからです。
悔い改めて祈っていないからです。

ここ22節と19節に「確かに知らなければならない」という主からのことばがあります。
しっかりと、真実の言葉として素直に聞けと言う、主からのことばです。

彼らが、主のことばを聞かないことを、主は知っておられます。
彼らは自分たちの願いであるエジプトへの寄留を認めてくれることばが欲しいだけなのです。
この先の歩むべき道となすべきことを知りたい、聞いて行おうとは思っていないのです。
その根本は、悔い改めがないからです。
ですから、何を聞いても聞き従うことがありません。

確かに知れ、とは主から厳しいことばであり、愛のあることばです。

シャローム