「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」ローマ人への手紙 3章20節

パウロは信仰と行いを比較して、信仰による救いが確かであることを示します。

ユダヤ人は神さまから律法を与えられました。
しかし、律法を与えられたからといって、ユダヤ人が他の人たちより優れているわけではありません。
律法を持っているから、自動的に罪が赦されて義となるのでもありません。
むしろ、律法を知っているので、誰よりも罪が明確に分かるのです。律法に自分の罪を指摘されます。

律法は、それを行うことによって「義」正しいとされるのです。それも律法をすべて完全に行うときに、義であると認められます。
そして、これが確かなことですが、「肉なる者」人は、それを行うことはできません。
義とされません。
律法を持ち、知っている人は、罪を知ることができること、自分には律法を完全に行いとおすことができないことを、思い知らされるだけです。

しかし、そこに信仰による義、イエス・キリストを信じるだけで義とされる道が示されたのです。
律法を通って罪を知り、信仰の元へたどり着き、義とされたのです。

シャローム