「「イスラエルの子らに告げよ。「わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた。逃れの町を定めよ。」ヨシュア記 20章2節

「逃れの町」とは、何でしょう。憎しみ、殺意がなく過失によって隣人を死なせてしまった人が、血の復讐をしようとする人から守られるための町です。
もちろん、無罪放免というのではありません。
大祭司が亡くなり、代替わりをするその日まで、その逃れの町に留まり続けなければいけないのです。
イエス様の十字架の死まで、私たちの血、罪が赦されなかったことを思い起こさせます。

ここでは、主のあわれみを深く覚えます。
主は怒りとさばきの神ではなく、あわれみと赦しの神なのです。
人は、このような場面では、過剰な復讐、報復を当然のように求め、思うものです。
最近のネットでの過剰な裁き合い中傷は、そんな人の罪を一面が出ているのではないかと、私は個人的に感じています。

しかし、主は逃れの道を閉ざしません。赦しを取り去りません。
あわれみは私たち一人ひとりに等しく注がれています。
逃れの町を受け入れられないというのであれば、それは主のあわれみを自ら拒むことに通じると感じます。

告げておいた。定めよと、主は命じます。
それはこの逃れの町、逃れる道が私に必要だからです。
主は、それをあらかじめ備えてくださり、私に、この箇所で見せてくださるのです。

シャローム