「主が家を建てるのでなければ 建てる者の働きはむなしい。 主が町を守るのでなければ 守る者の見張りはむなしい。」詩篇 127篇1節

家を建てるとありますが、建物のことだけではなく、家庭を築くことも含んでいます。
同じように、町を守ると言うことも、建物や道路と言った設備のことだけではなく、そこに住む人たちの生活と心を守ることを含んでいます。
人が、自分だけでどれほど労苦しても、その働きがむなしく終わることがあります。
もちろん、勤勉さや努力することを否定していないことは確かです。

しかし、すべての出来事の背後にある主の私たちへの愛と配慮と言うことに目を向けることができなければ、その労苦は的外れにもなります。
創世記に記されるとおり、バベルの町で神に取って代わろうと高い塔を建てようとした者たちは、それぞれが自分勝手な思いで塔を立てようとして結局はその働き、労苦はむなしく終わりました。

主を信じて、主がこの地上で良いことをしてくださるのだと、信じてその主の働きに参加する思いがなければむなしいのです。
主のご計画を知りたいと願い、祈りつつ働く時、主が私たちのすべての働き、労苦の背後で配慮をしてくださっていることを知ることができます。
私たちの労苦は、主に知られており、主が配慮してくださり、恵みの内に導いてくださっているのです。
主への信頼と期待があり、主が私たちを配慮してくださることを喜び感謝して働くならば、それはむなしく終わることはないのです。

この2節には「実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる」と、告白しています。
主を愛して労苦する者は、実は主に愛されて、思いがけない恵みを与えられ、平安を与えられるのだというのです。
私たちの今日一日の働きがむなしく終わるのか、主からの恵みと守りの中で休むことができるのか。
それは私の主への信仰と主の配慮、導きへの期待の結果なのです。
シャローム