「ソロモンはファラオの娘を、ダビデの町から彼女のために建てた家に連れ上った。「私の妻はイスラエルの王ダビデの家に住んではならない。主の箱が入れられたところは聖だからである」と彼が考えたからである。」歴代誌 第2 8章11節 (2017新改訳)
列王記の第1、3章1節を読むと、ソロモンがエジプトの王ファラオと姻戚の関係を結び、ファラオの娘を妻としたことが記されます。
同時に、主の家とソロモンの家が築き終わっていないので、ダビデの町に仮にとどまらせたことも記されています。
今朝の箇所で、ソロモンがファラオの娘である妻、即ち異邦人の妻を、主の宮が完成したダビデの待ちに住まわせるのではなく、町の外に別の家を用意したのだと、分かります。
異邦人が聖なる町には入れない。
正しい判断のようですが、ファラオの娘はソロモンの妻となっても、エジプトの神々をあがめたいたのだと、分かるのです。
改宗して、形の上でもユダヤ人となり、主を礼拝する人にはなっていないのです。
既に姻戚から永井年数が経っているのにです。
そして、列王記の第1、11章1〜3節には、ソロモン王が、700人の王妃としての妻、300人の側女がいて、ファラオの娘を初めとしたこれらの女性が、ソロモンの心を転じさせて。主から心を引き離してしまったことが指摘されています。
罪なのです。
主の宮とソロモン王の家の完成と言う、絶好調の時に、ソロモンはファラオの娘をダビデの家には入れませんでしたが、ここに既に罪の芽があったのです。
そうしてその後、ソロモンの心は、主から離れていくのです。
もし、聖書に「もし」はないのですが。
ソロモンが、本当にイスラエルのダビデの家に住んではならないと、ファラオの娘について考えていたならば、もっと早く行動すべきでした。
主を一番に愛することができなくなっていたソロモンの姿がここに見え隠れするようです。
ダビデは、サウルの娘のミカルに、皮肉を言われた時に、主をなによりも一番に愛して賛美するのだと、答えました。サムエル記の第2、6章20節〜。
主は、そのダビデを愛して祝福しましたが、ミカルは恵みを受け取ることができませんでした。
ソロモンは、順境の日々を長く過ごす中で、主だけを一番に愛する心が失われつつあったのかもしれません。
ここに完成の喜びの記述とともに、ファラオの娘のことが記されていることに心留めて、主を一番に愛することをもう一度、覚えたいと思いました。
シャローム