「するち人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。」マルコの福音書 5章17節
湖の向こう岸のゲラサの地にいたのは汚れた霊につかれた人でした。
鎖でつないでおくことも、しばりつけておくこともできない状況のひとです。
しかし、イエスが出て行くように命じると、その人の中にいた大勢の霊は逆らうことなく出て行き、飼われていた豚の中へ移り、湖に流れ込みおぼれ死にます。
そして、その人は正気に戻ったのです。
ところが、この出来事の詳細を知った人々は、イエス様に自分たちの住む地方から出て入って欲しいと願うのです。
それも懇願しました。
どういうことでしょう。
イエス様を恐れたのです。
霊につかれた人の行動に困っていたのではなかったのか。霊につかれた人を可哀想だと思ってはいなかったのでしょうか。
人々の態度は、霊を追い出すことができ、その当人を正気に戻すことができるイエス様を信じて受け入れることが嫌だということです。
手に負えない人がいて暴れても、自分のこととして受け止めてはいないのでしょう。
しかし、霊を負い出追い出し、正気に戻す人のことは自分にも関係してしまいます。
事実を受け入れて信じるのか、信じないのかを決めたくないのです。
ただ、イエス様がいなくなれば、見なかったこと知らなかったことにできると思っているようです。
神様がおられて、神様が自分の住む地、生きる時代に働かれて、自分にも関係していることを知りたくないのです。
神様を中心にして生きていく生き方に変わることが嫌なのです。
私は、この時、この場所にいたら、何をイエス様に懇願するだろう。
私にも声を掛けて欲しい。私の隣にいて欲しい。
シャローム