「御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」ヨハネの黙示録 22章17節

新約聖書、そして聖書66巻の最後を飾るのは主の「しかり、わたしはすぐに来る」という声であり「来てください」と答える私たちの応答です。
そこでは大切な「いのちの水」はただで受け取るのです。
神様からの一方的な恵みとして与えられるものを、信仰者は迷うことなく疑うことなく、そのままただで受け取るのです。

主イエスは象徴的な意味だけで来てくださるのではなく、私たちと本当に顔と顔を合せてくださるのであり。
私たちは、そこを私の住まいとして生きるのです。
そこは主の恵みが一方的に注がれて溢れ、私たちの応答の賛美がまた溢れる地であり、日々となります。

恵みが溢れているのは、この2節にも示されます。
創世記3章17節には、アダムの罪のために大地はのろわれ、一生の間、苦しんで食を得ると、さばきのことばがあります。
それに対して、黙示録の最後のここ22章2節には、毎月一つの実を結び、その葉は民を癒したと、祝福のことばがあります。
実に食と健康は新しい天と地では、神様から恵みとして一方的に与えられていくことが記されるのです。

労働が喜びと平安となり、私たちの身と心を満たし。
賛美が常に溢れる地と日々となります。
夢物語ではなく、主イエスが約束された地です。
「これらのことばは真実であり、信頼できます」と、6節も語ります。

アーメン。
主イエスよ、来てください。

心から信じて、このことばを口にします。

シャローム