「一つの声が裸の丘の上で聞こえる。 イスラエルの子らの哀願の泣き声だ。 彼らが自分たちの道を曲げ、 自分たちの神、主を忘れたからだ。」エレミヤ書 3章21節

哀願の泣き声とは、現実の災いに会って叫ぶ祈りのことをさしています。
一つには大きな災いとして、南ユダの民が捕囚という苦しみに会うことです。
その時になって、彼らはようやく真剣に主に祈るようになるのです。

しかし5節の祈りの言葉を読むと、神は、民が偽りの口先だけの祈り、嘆願しかししていないと指摘しています。
民は、主が悔い改めよ、立ち返れ、と呼びかけても口先でしか神をあがめなかったのです。
そしていつまでもバアル神を初めとする偶像をあがめ、豊饒を祈って来ました。
しかし「〜食い尽くしました」24節、と主は、バアル神は豊かな実りを与える神々ではなく、奪う神だと教えています。

裸の丘とは、実際の丘を指すのではなく、すべてを失い、さばきの中にあることを指しているのでしょう。
失って、捕囚の身となってようやく南ユダは主に心から叫ぶようになるのです。
しかし、失ったのは彼らが自分たちを愛してくださっていた真の神、主を忘れて好き勝手に歩み続けたからです。

失う前に、主の声を聞いて悔い改めて主に立ち返ることを覚えたい。
それでも、さばきの中から主は、わずかに残った信仰者を救いだし回復して、祝福してくださるあわれみ深い方です。
哀願の機会が残されているのも確かです。

シャローム