「そよ風の吹くころ、彼らは、神である主がそのを歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」創世記 3章8節 (2017新改訳)
アダムとエバは、善悪の木の実を食べる前までは、神である主と顔と顔を合わせて園で暮らしていたはずでした。
それが今、賢くなった二人は、神の前から身を隠さなければならなくなりました。
実を食べて最初におこなったことは、互いに恥を知り裸を隠すために腰の覆いを作ったことでした。
次に、神の前から隠れました。
それも頼りにもならない物を頼らなければならないのでした。
いちじくの葉では、身体を隠すことなどできません。
木の間に隠れても、人の姿を隠せません。その前に、園の創造主であり所有者の前に、園の中で隠れることなどできるはずもないのです。
できるはずもないことをしてしまう。
親しい方であり、自分を愛してくださっている方から隠れる人。
その愚かで恥ずかしい姿は今の私たちにもそのまま存在します。
それなので私たちは、この真の神の前から頼りにならない物を盾にして隠れたり。
主を、知らないと否定するのです。
しかし神である主は、存在します。
今も、私たちを求めて探し回り、声を掛け続けてくださる。
探すのは愛の行動。
隠れるのは恥と罪の行動です。
しかし、隠れるのを止めて、主の声に応答するならば、愛の関係が再度結ばれていくのです。
私たちは、園のこの日から、神だけではなく、様々なものから隠れることをしてしまうのです。それは罪から始まっている行動です。
隠れないで、神の前に行き、自分の姿をさらしたい。
そこには愛の関係の始まりと喜び平安が備えられています。
隠れることに一つも良いことはないのです。
シャローム