「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるためによこしたセンナケリブのことばを聞いてください。」列王記 第2 19章16節 (2017新改訳)
アッシリアの王に侵略されているヒゼキヤ王は、主に祈ります。
ヒゼキヤは訴えます。
アッシリアの王が、主を侮り嘲っているので、さばいてくださいと、訴えるのです。
ヒゼキヤには、信仰者として私たちが学ぶべき点があります。
彼は、主に心から信頼しています。主の全能の力とあわれみ深い方であり、私たちを顧みてくださる方あることを信じています。
そして主に期待する人です。主が不可能を可能にして解決してくださる、助けてくださることを信じて期待しています。待っています。
この信仰を見習いたい。
その上でヒゼキヤは、祈る時に、解決して欲しい内容の前に、聞いてください、見てくださいと祈ります。
この祈りに倣いたいものです。
主は私たちを見捨てたり、放っておく方ではありません。愛の方ですから。
それを知った上でなお呼びかけるのです。
期待し確信を持っているからこそ祈りの声を上げます。
「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。」
主が、私の祈りを聞いてくださり、主が、私の今の姿を見てくださいと祈ります。
傾けて、開いてと、言葉を補うのは、その思いの切実さと確信の深さを示しています。
解決は主にお任せするのです。
主が私の祈りを聞き、私の姿を見て、私を知っていてくださることが大切です。
確信しているからこそ、このように祈るのです。
シャローム