「アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。そして自分の民に加えられた。」創世記 25章8節 (2017新改訳)
アブラハムは主が自分に与えると約束を去れたカナンの地では、最後まで寄留者でした。
所有したのはわずかに妻サラを葬ったマクペラの洞穴だけです。
新約聖書「ヘブル人への手紙11章」によれば、アブラハムは約束のものを手に入れることはなかったが、はるか遠くにそれを見て喜び迎えたとあります。
ここでも彼は満ち足りて幸せであったと記されます。
そして自分の民に加えられたとあります。
このことばは、35章29節に、息子イサクが死んで葬られるときにも持ちいられる表現です。
自分の民とは、神様の約束を受け取り、それを信じて地上での生涯をまっとうして死んだ人たちのことです。
はるか遠くにそれを見ている人たちです。
約束のものを手に入れるかどうかだけを見れば、それは地上では確かに未達成、未完了です。
でもそれは人の目にはです。
息子、そのまた息子たちと繋がって行く子孫が、星の数のように増え広がり、幸せで満ち足りた生涯を送る姿を、人はすべて見ることはできません。
しかし主の目にはそれは確かなことであり、完了していることなのです。
それなので、信仰者は主が与えてくださった約束がどれほど大きく広く実現して行くのかを、終末の日に見ることができると、期待して地上の生涯を終えることができます。
そして同じ信仰を持つ者と一緒になり、期待して待つのです。
それは地上での何十年かの生涯だけでなく、その後の神、主とともに生きる歩みが確かにあると信じている平安でもあります。
それなのでアブラハムは、手に入れないものがあるにもかかわらず、満ち足りているのです。
もっともっとと、満たされない日々を送って終わる人生ではなく、満ち足りて終わり再開の日を期待し確信して終わるアブラハムに続きたい。
それが今日の、平安と期待と喜びになっているから。
シャローム