「国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出したか。主がエルサレムを私の手から救い出せるとでも言うのか。」列王記 第2 18章35節 (2017新改訳)
ユダの王になったヒゼキヤは、主の目にかなうことを行う王でした。
そしてかつての王たちが取り除くことができなかった高き所を取り除き、石の柱を打ち砕きました。
そしてかつて主がモーセを通して示してくださった青銅の蛇さえも、人々が偶像の神々の像のように扱っていましたので、それも砕いたのです。
そして主にだけ頼るように、主だけを信じるように人々に示し、模範となったのです。
一方、強い力を誇るアッシリアの王は、北イスラエルを滅ぼし、南ユダに迫ります。
そしてヒゼキヤ王を馬鹿にして、なんと主なる神をも嘲るのです。
ここはアッシリアの王が、エルサレムを攻めて降伏を勧告します。
ヒゼキヤ王は、主に頼ります。
アッシリアの王は、主には救えないと、脅すのです。嘲り脅迫して迫ります。
ここに二人の人がいます。
主により頼む者、主を侮る者。
その違いはなにか。
主により頼む者は、どんな状況になろうと、苦境の中でも、主にだけより頼むのです。
しかし、主を侮る者は、その人が頼りとしているものを、いつでも、どんなときでも頼ることはできない。
何故なら、唯一で絶対の存在である方に頼っていないので、その時々で頼るもの、尋ねる相手が変わるのです。
それは更に強いもの、頼りとなるものに頼っているようにみえますが、実は、頼りにならないもの、確信のないものに期待しているだけなのです。
それなので、次つぎと変わっていくのです。
主にだけ頼り、主にだけ祈り求めて、待つ。
主に期待して歩む。
そんな一日としたい。
シャローム