「このようにして、これらの民は主を礼拝すると同時に、彼らの刻んだ像にも仕えた。その子たちも、孫たちも、その先祖たちがしたとおりに行った。今日もそうである。」列王記 第2 17章41節 (2017新改訳)
23節にも「今日もそのままである」と、記されています。
変わることがない、絶望を示すことばです。
主の背き、偶像の神々を拝んだイスラエルの民は、アッシリアに滅ぼされて、アッシリアに捕囚の民として連れて行かれて、今日もそのままなのです。
連れて行かれて住む人が居なくなった町に、移住させられた異邦人は、イスラエルの神、主を礼拝することを教えられても、自分たちの故郷の神々を捨てることはしないで、両方の神を拝む、混合宗教を始めて、今日もそうである。
そして、そこに住む、残されていたイスラエル人も又、同じように偶像の神々を、主と一緒に礼拝する行為を行い始めたのです。
主の警告、主のことばを聞かないで、頑固な生き方を続けたのです。
主を礼拝することは、主のことばにだけ聞き従うことです。それは主を愛することです。
しかし、一度、自分たちの好き勝手に偶像の神々を取り入れたイスラエル人と、元々の偶像礼拝を離れることができなかった異邦人は、今日もそのままなのです。
悔い改めて、罪の一切を捨て去り、主のことばをひたすらに慕い求める。
心の一新と、一つの心で、一人の真の神だけを愛することの難しさをここを読むと感じます。
しかし今日もそうであるとの、ことばに絶望する必要もないのだと、信じます。
主イエスをただひたすらに信じるなら、私は造り変えられて以前の私ではなくなり。
その私は、その時から聖霊の助けと導きを、私の内側からと、私の外へと受け取ることが始まっているからです。
イエス・キリストを信じる。
イエス・キリストの恵みである。
そのことを大きさを改めて思う朝です。
シャローム