「ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださいます。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上ってください」と言った。」創世記 50章25節 (2017新改訳)

水曜日です。聖書66巻から1つの書を選び、その書を紹介しながら「みことば」を味わっていきます。
66巻をゆっくり読み進めながら、聖書に記された神様の愛について味わっていきます。
今日開いたのは、創世記です。

創世記の最後のことばを開きました。エジプトでのヨセフのことばです。
「はじめに神が天と地を創造された。」と始まった創世記の終わりは、外国で数々の困難を経験しながら主にだけ信頼して生きたヨセフのことばで終わります。
最初が、神の宣言のことばであり、この世界が造られた真実を明かすことばならば、最後は、世界を造られた方への信仰の告白です。

ヨセフは、イスラエルの子らと言う主を信じる子孫、信仰の家族に向かって、自らの信仰を告白します。
同時に、神が約束をしてくださったことが必ず実現することへの期待を明らかにします。
顧みてくださるから、遺骸を携え上れとのことばは、今のエジプトでの生活はキリュウシャに過ぎないことを明かし、約束の地であるカナンへ、上るときが来ることを確信していることばです。
そのとき、ヨセフ自身は亡くなっていても、一緒にその地に行くことを希望しているわけです。
約束の地にいたいとの思いは、アブラハムが、あのマクペラのほら穴に、自分の遺骸が葬られることを望んだのと同じです。

地上での生涯において、神が約束してくださった祝福をすべて、完全に受け取ることが恵みではなく、終末の日には、何を見せていただき、何を受け取れるのかまで、期待して眠りにつくことができる平安も恵みとして受け取っているのです。
地上でやり残したことがあると感じたり、死んでしまった後のことを不安に感じるのではなく、主に期待して委ねていける最後の瞬間を迎えることができるのが信仰。
それを大切な家族にことばと恵みとして残せるのも信仰です。

創世記は、神の創造の業を示すことばで始まり。
ヨセフ、即ち信仰の先人の、期待と平安に満ちた信仰告白のことばで終わるのです。
同時にその信仰のことばは、次ぎに繋がる恵みのことばであり祝福そのものです。
それを私も受け取っていることを告白できるのです。
シャローム