「アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。」創世記 22章14節 (2017新改訳)

主が私たちに対して持っておられるご計画の大きさ不思議さを、私たちは、ほんの少しだけでも知ることはできない。
主は、アブラハムに恵みとして与えてくださり祝福してくださった息子のイサクを献げるように命じます。
それはいけにえの動物を献げるように息子の命を献げると言うことです。
できるはずもないそのことばにアブラハムは従います。
そしてこのことを「神が試練にあわせた」のだと、聖書は教えます。
アブラハムは、神、主のことばに従います。

しかしまさにイサクを屠ろうとするその瞬間、主が介入をされます。
山には牡羊が備えられており、その牡羊をいけにえとして献げたのです。
主の山には備えがある。

新約聖書、コリント人への手紙第1、10章13節には、神は耐えられないほどの試練に会わせることはなく、むしろ、耐えられるように試練とともに脱出の道も備えてくださいます。と、教えています。

アブラハムが主の試練に応えようと、山に登らなければ、牡羊を献げることもなかったのです。
イサクの命を守ることを願い、或いは自分で策を図るのではなく。
主のことばに従おうとして行動するとき。
脱出の道を歩み進めることができるのでしょう。
主が、試練を与えるのは、私を愛してくださるからであり、試練を避けるのではなく、試練に向かうときに脱出道を見い出し、主の愛を知るのです。
主のことばに従う先には、いつも備えがあり、祝福があるのです。

もう一言。
それにしても、一人息子(イサク)を献げよという試練に勝る試練が、小さな私に与えられとは考えられません。
それならばなおのこと、私の生活には脱出できない試練などないと言えるのでしょう。
むしろ主の備えの素晴らしさを経験する機会が与えられるのだと、受けとめるべきなのでしょう。
シャローム