「アブラハムはベエル・シェバに一本のタマリスクの木を植え、そこで永遠の神、主の御名を呼び求めた。」創世記 21章33節 (2017新改訳)

主の御名を呼び求めるアブラハムの姿が21章の終わりに記されます。
別訳が発見されている聖書写本の中には「主に祈った」と、記すものもあります。
いずれにしてもアブラハムが主なる神の前に進み出て、主の名を呼び祈っていることは間違いがありません。
アブラハムは大切な場面、人生の要所要所では必ず自ら祈っているのです。
祈って来たのです。

ここ21章でも、女奴隷のハガルがサラが産んだイサクをからかうと言う問題を引き起こします。
サラの怒りを買ったハガルとその子イシュマエルは追い出されることになります。
アブラハムの生活は、いつも安定していて平和なことばかりではなく問題も次々と起きるのです。

しかし一方でかつて問題を引き起こした相手からの歩み寄りも経験します。
22節には、かつて色々と問題のあった相手であるアビメレクがアブラハムを訪問して、和解を提案します。
その時彼は言うのです。
「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられます。」
何をしてもとは、勿論、悪事さえも神が許されてアブラハムを助けると言うことではありません。
どんな時、どんな困難な時にも、神がアブラハムを守り、祝福するということです。
そしてアビメレクとその側近たちは、いつもそれを目撃してきたと言うことです。

26節で、アビメレクは、アブラハムが井戸のことで抗議したところ、部下の悪事を知らなかったと、答えますが本当でしょうか。
そのまま受け入れがたい言い訳に聞こえます。
しかし問題は、事件が起きたその時には、知らないふりをしてたアビメレクも、神がアブラハムを守っておられるよ様子を繰り返し目撃し、経験する中で、アビメレクの方から、和解を申し出ようと考えたのです。
神である主を信じることがなくても、神、主が守っておられるアブラハムを敵に回すのは懸命ではないと、思い知るに至ったのでしょう。

では何故、アビメレクはそう思ったのか。
それはアブラハムがいつもこの33節にあるように、神、主にだけ祈っていることを知ったからです。
詩篇の詩人は主に向かって、自分のことをいつも知っていてくださいと祈り求めます。
アブラハムが、いつも主に祈って、主にすべててのことを知っていただこうと祈り続ける姿が、時間はかかっても問題の解決、和解の道を開くのです。

私たちが、夕に朝に、神、主の御名を呼び求める生活が、自分の生活に平安をもたらすだけでなく、平和を作り出していくことになるのです。
何か、特別なことをするよりも、いつも神、主を呼び求めること。いつも祈って行くことが大切なのです。
神が私を知っていてくださることに勝る力は他にはありません。
シャローム