「いつも喜んでいなさい。」テサロニケ人への手紙 第一 5章16節

テサロニケの手紙の内容で良く知られているのが、この16節と続く17節「絶えず祈りなさい」というみことばでしょう。
私たちが日々の生活を送る中では、喜べないこともあり、悲しみ涙する日もあると感じています。
それなのに主は無理なことを命じるのでしょうか。
確かにここ16節だけでなく、12節であなたがたにお願いしますと、記した後に幾つもの勧めと命令があります。
どの命令も、実践、実現できれば素晴らしいけれども、それを「いつも」「絶えず」と言われてしまうと、無理ですと答えたくなります。

しかし、主は私に無理難題を押し付けるのではありません。
キリストによって罪が赦されて救われていることを信じていて、キリストのことばに信頼する人ならば、それはできるのです。
何故なら、それは「キリストに在って喜ぶ」ことだからです。
嬉しことがあったから喜ぶということではないのです。
私がキリストに在る人となっているから、喜び、喜べるのです。

それはキリスト・イエスが、私がそのように生きられるようにと、私のために死んでくださったからです。
既に、私がそれをできるようにイエス様はその道を完成させてくださっているのです。
私がイエス様を会いする夕に朝に生きる時には、私はいつも喜ぶことができるのです。
難しいけれど難しくはない。不可能なようだけれど可能。キリストによってできるのです。

シャローム