「ああ、私の頭が水であり、 私の目が涙の泉であったなら、 娘である私の民の殺された者たちのために、 昼も夜も、泣こうものを。」エレミヤ書 9章1節
9章の初めにエレミヤの口を切って出た言葉は嘆き悲しみの言葉でした。
エレミヤは、民の悲しみを心の底から嘆いているのです。
殺された民とは、敵国の侵略によって殺された人たちのことです。
民の悲しみ、嘆きをエレミヤは自分のこととして悲しんで祈っています。
しかし、民にただ同情をしているのではありません。
2節になれば、エレミヤは荒野に出て、一人になりたいと願っています。
それは民の罪があまりにも大きく、その上、民がいつまでも悔い改めないのです。
民の悲しみを受け止めて祈ることと、民が罪を改めるようにと、心から願い祈ることは、エレミヤの中では同時に起こるのです。
「私の頭が水であり、 私の目が涙の泉」とは、枯れることのない涙を比喩的に語っています。
それほどにエレミヤの悲しみは深いのです。
民の悲しみなど、罪を悔い改めを伴わない軽い悲しみです。
エレミヤは民のために、隣人のために、そして信仰を捨てなかった残された民のために、心から悲しみ嘆くのです。
隣人のために悲しみ嘆き涙を流し、主に祈れる信仰者は幸いです。
主が、必ず慰めてくださる。そして祈りに答えてくださるからです。
今年のクリスマス礼拝の日です。罪人の私を愛し、私を救うために十字架で死ぬことを知っていて、なお、来てくださったイエスさまに涙をもって祈り、賛美する日としたい。
シャローム