「水がみなぎり、地の上に大いに増し、箱船は水面を漂った。」 創世記7章18節

今朝は「漂った」ということばに心が留まりました。
日常で、私が「水面を漂った」と、使うならば、それは自分では制御しない、制御できない状況を指すでしょう。
自分の力や考えの及ばない状況で、身を任せなければならない不安で不確かな状況です。

しかし、この時は違います。
箱船の戸を閉ざしたのは主です。時間が来たのです。
雨、洪水を降らせ、全地を水で満たしたのも主です。
それも主がご計画をされて実行されました。

水はみなぎっています。主の力が完全に振るわれています。
大いに増しています。人の力ではなく、自然にということでもなく、主の力が及んでいる状況です。
その時、漂うのは、主の導きを信じて主に従っていることを指します。
箱船が港、大地に到着するのか、それはどの地域の何処かは、ノアは知りません。
しかし、主に信頼して箱船ごと、即ち、自分のすべてを主にお任せしています。

漂うのは、自分の力で解決を図るのではなく、無計画ということでもなく。
主のご計画を少しづつ知っていく途上を指します。
漂いつつ、主の導きを朝ごとに夕ごとに求めていく状況です。

日曜日です。
私たちの今日の箱船である礼拝は主に何処へ導いていただけるでしょう。どのような恵みがそこにはあるのでしょう。
想像することはできませんが、期待して心を合せて礼拝することはできます。
さあ!立ち上がり主の礼拝へ!

シャローム