「サライはアブラムに言った。「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく。彼女によって、私は子を得られるでしょう。」アブラムはサライの言うことをき聞き折入れた。」創世記 16章2節 (2017新改訳)
 
 
 アブラムの父テラがハランで死んでから10年が経ちました。
 アブラムとサライには子どもが生まれません。
 主が子孫が増えると約束を与えてくださってから、何年も経ち、二人が年老いても子どもは生まれないのです。
 
 サライは、この地方にあったしきたりに従って、女奴隷によって、子を得ようとします。
 こういった方法は、この土地ではよく行われていたのです。
 跡継ぎの男の子が生まれないことの方が問題なのです。
 
 でも、主の約束が先にあったのですから、待たなければならなかったのです。
 それなのに、サライは人間的な方法で問題を解決しようとします。
 アブラムも、それを止めることができません。
 
 結果は、身ごもった女奴隷のハガルがサライを見下すようになり、別の問題が大きくなってしまいます。
 そのすべてを主はご覧になっています。
 しかし、主の声がアブラムに届き、主の業がおこなわれるのはもっと後になります。
 
 確かに主の約束が、自分の身に実現するまで待つのには、このとき10年待たなければなりません。
 いつ実現するのかと、不安と、苦しく厳しい日々を過ごすことになります。
 信仰により頼んで待つ日、期待する日々とは、そういうことがあるのでしょう。
 しかし、私たちは弱い。
 主のことばだけに期待して従い待つよりも、自分で別の道や方法を作ろうとしてしまう。
 しかし、そこには別の苦しみや試練が待っています。
 
 私には分からないけれども、主が、直ぐに約束を実現してくださらない時には、そこに意味があるのです。
 それも含めて待つのです。
 ああ、でも私に待てるのだろうかと、不安なります。
 そんな時は、聖霊様が助け、私の心を不安ではなく、聖霊様が満ち満ちて欲しい。
 心注ぎ出して祈った後は、その顔が以前のようではなくなっていたハンナのように期待できる人になりたいものです。
シャローム