「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」ガラテヤ人への手紙 6章15節 (2017新改訳)
聖書66巻から1つの書を選び、その書を紹介しながら「みことば」を味わっていきます。
66巻をゆっくり読み進めながら、聖書に記された神様の愛について味わっていきます。
今日開いたのは、ガラテヤ人への手紙です。
著者はパウロです。
パウロらしい手紙です。
かなり厳しい口調と内容の手紙です。
それはパウロが、ガラテヤの教会の人たちを、心から愛しているからです。
手紙の宛先のガラテヤですが、地理的な意味で使われる「ガラテヤ」地方の教会に向けて書いたと思われます。
ローマの属州であるガラテヤ地方と言うならば、地理的なガラテヤに加えて、更に南の地域も含まれます。
地理的な意味のガラテヤに向けて書いたと、理解すると。
パウロが第二回目の宣教旅行の折りに、ガラテヤ地方を訪れて、教会を開拓、建設したのだと思われます。使徒16章6節。
そして第三回目の宣教旅行でも訪れて、その直後にこの手紙を書いたと考えられます。
1章6節の「このように急に離れて」或いは「そんなにも急に見捨てて」とは、パウロが伝えた福音の恵みから離れて、律法主義に変心してしまったことを、指摘していると思われます。
信仰義認、信じることで救われると言う恵みから離れて、割礼を受けて律法を守ることで、救いを得ようとするユダヤ主義的な考えに変わってしまったことを、指摘するのです。
いえ、指摘ではなく、それは間違いであり、愚かなこと(3章1節)だと、パウロは強く訴えるのです。
どうして、私たちは信じるだけでなく、自分の力で救いを得ようとするのでしょうか。
それは絶対に叶わないことなのに。
信仰義認。
これを捨ててしまったら、誰も罪から救われません。
そしてそれはイエス様の十字架の犠牲を無駄にしてしまうことなのです。
割礼を受けて、旧約の選民ユダヤ人と同じようになることは大事なことではないのです。
大事なのは新しい創造です。
それは私が、イエス様と一緒に十字架に磔つけられて死に、イエス様の復活と同じようになると言うこと。
イエス様を信じた人は罪に死んで、復活のイエス様と一緒に生きるようになるのです。
それが新しい創造です。
私たちは、イエス様を信じた時に、既に新しく造り変えられた者なのです。
ですから、形だけユダヤ人になる必要などないのです。
既に私たちは新しい人、イエス様とともに生きる人であり、永遠のいのちの約束を持っている人なのです。
この恵み、この福音を捨てて離れてしまってはいけないのです。まさにそれは「ああ、愚かなガラテヤ人」と言うことです。
シャローム