「怒りがあふれて、少しの間、 わたしは、顔をあなたから隠したが、 永遠の真実の愛を持って、あなたをあわれむ。 ーあなたを贖う方、主は言われる。」イザヤ書 54章8節
ここはバビロンでの捕囚とそこからの解放が比喩的な表現で繰り返して示されます。
見捨てられた、顔を隠したとは、イスラエルが罪の結果、主のさばきを受けて補修の身となったことを表します。
捕囚の期間は、屈辱の期間であり悲しみの期間です。
そこから再び、主によって赦されて、解放されるのです。
ここ8節では「少しの間」と「永遠の真実の愛」が対比されています。
もちろん、人の怒りとは別の怒りですが、神の怒りによってさばき、捕囚となったなったのは「少しの間」なのです。
それに対して、そこからの解放は「永遠」なのです。それほどに深く大きな愛で、愛され、赦されることが強く示されているのです。
そして苦しみ、屈辱、悲しみといったところから解放されるのは、主によってなのです。
他のもの、他の存在、他の力によっては解放も贖いもあり得ません。
私たちは、どこまでも主の御顔を追い求め、御顔を仰ぎ日々を歩むことを望むことが幸いなのです。
神の愛は真実の愛、永遠に変わることのない愛なのです。
罪があり、小さな存在のはずの私が、この永遠の真実の愛で愛されている、赦されていることをしっかり覚えておきたい。
礼拝の日曜日です。主の前にすべてを注ぎ出して礼拝を献げましょう。
シャローム