「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」ガラテヤ人への手紙 2章21節

2章は、唐突に始まったように感じます。パウロはかなり厳しいことばを続けます。
「割礼を強いられませんでした」3節。「神は分け隔てをしません」6節。「面と向かって抗議しました」11節。「偽りの行動に引き込まれてしまいました」13節。
ケファとも呼ばれるペテロ、そしてバルナバのことまでも、11〜13節では厳しく抗議するのです。
それは深い意味がありました。
異邦人が、イエスを救い主と信じたのに、割礼を受けるべきだと主張するユダヤ人が大きな声を上げたりしたからです。ペテロもバルナバも、その間違いを指摘して正すことができなかったのです。
他人の目を気にしたのかも知れません。しかし、パウロは抗議します。

もし、人が割礼を受けたり、律法を守ることで自分が「義」とされて罪が赦されると考えるならば、それはイエス様の十字架の贖いの業を否定することになります。
恵みによる救いを無にしてしまうのです。

私たちは、自分の能力や修業、善行を積むことでは、罪が赦されて義とはされません。
信仰による義、これだけが私たちが赦される唯一の道です。
そして、それは神様の恵みによるものです。

この恵みを無にするものを、そのような教えを、パウロは徹底的に取り除きます。
私たちは今、神様の恵みによって生かされており、罪が赦される道が与えられているのです。
これは決して変質させてはいけないのです。

シャローム