「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。 私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。 私たちはみな、あなたの御手のわざです。」イザヤ書 64章8節

63章の15節から続く、主が地上に臨まれて、罪をおこなうイスラエルの人々をさばく様子がここに記されています。
一つ前の7節では、主が、御顔を隠しイスラエルを見捨ててしまったのだと、嘆きのことばを吐露しています。
それでも一言「しかし」と、声を上げて、主の救いを待ち望みます。
祈りがここで変わります。

しかしの後に続くことばは、主への信仰の告白です。
主が、陶器師であって、私たちを自由に作り、形作る権限を持っておられます。
詩人はそのことを知っており、告白します。

そして、何よりも「父」であると、告白するのです
御顔を隠して見捨てられたのだと、告白てもなお、主は私の父であると、親しく告白します。
見捨てられた、けれども絶望はしていません。父と呼びかけるのです。
同時に、陶器師の主に、私は自由に作り替えられて行くのだとも告白します。
造られた陶器は、陶器師のもの、陶器師に従うことを告白して、主の救いを待つのです。
嘆きつつも、助けを祈り求めることを忘れない心に倣いたい。
シャローム