「このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためにダンまで行った。」列王記 第1 12章30節 (2017新改訳)

ソロモンの死後、息子のレハブアムは、長老たちの助言を退けて、民の苦役を重くします。
その結果、民はヤロブアムを北イスラエルの王として、レハブアムと南ユダ王国から離れて行きます。
ダビデ、ソロモン王国の分裂です。
しかしこれは背後に主が働かれていたのです。
レハブアムは、主のことばを聞くと、ヤロブアムと北イスラエルと対立することを避けます。
大きな失敗をしましたが、レハブアムは主のことばに立ち帰ることができたのです。24節。

しかしヤロブアムは、民がいつか自分を裏切り見捨ててレハブアムの元へ行ってしまうと不安になり、行動を起こします。
それは南ユダのエルサレムの神殿に対抗して、二つの礼拝場所を新しく作ることです。
しかもそこに金の子牛の像を置き、これを神としてあがめるように勧めたのです。
偶像を礼拝する罪を犯してしまったのです。

しかし民もまた、それに加担して罪を犯します。
二つの礼拝場所ができたことは、民の心を喜ばせることになったのです。
二つの場所があること、二つの内のどちらかを自分で選べることは、民にとって都合が良く、嬉しいことだったのです。
ヤロブアム王も、北の民も主のことばを聞くことよりも、自分の思うままに神を礼拝為ることを望んだのです。

ここに人の恐ろしい罪があります。
神、主を礼拝すると言うことは、主に従うことです。
しかし人の罪は、自分の思うままに礼拝できる神が存在することを求めます。そしてそれを正しいこととしてしまうのです。
その時、人は神のことば、神の声を聞いていません。
自分の思うままに行動する時に、心とたましいの耳はふさがれてしまうのです。
その歩みは、どんどん神、主から離れて行きます。
立ち止まり、主の声を静まって聞くことが私たちの毎日には必要です。
シャローム