「私は言った。「私は、自分の杖、「慈愛」の杖を取って折った。私は諸国の民すべてと結んだ、私の契約を破棄するためであった。」ゼカリヤ書 11章10節
ここで「私」と言うのは預言者ゼカリヤのことですが、そのことばは、主の代理人としてのことばです。
主が語っています。
杖を取って折るとは、もう、羊飼いが大切な杖を折って捨てることですから、羊を飼わないということです。
言い換えれば、羊を見捨てるということです。
犠牲を払ってどこまでも羊を愛してくれるはずの羊飼いが、ついに羊を見捨てるという、恐ろしいことが語られているのです。
契約を破棄するとは、愛する民であるはずのイスラエルの民を捨ててしまうということです。
「慈愛」とは、神様と人との関係を表しています。
慈愛が捨て去られてしまったならば、神様と私との関係が切れてしまうことになります。
本当にもう、見捨てられてしまうのです。
杖は、なんらかの原因によって「折れてしまった」のではありません。
主が、取って、そして「折った」のです。
主が自ら折ったのです。
私たちが一番恐れなければならないことです。
主との関係が絶たれ、捨て去られてしまったら、どうしたらよいのでしょう。
もう、私にはできることはありません。
もう一度、主のあわれみが示されるのを待つしかできません。
そうなる前に、私たちにはできること、すべきことがあります。
主を求め、主のことばを慕い求めていくことです。
主は待っていてくださる方、主の忍耐の時に、主に立ち返るのです。
主の慈愛の杖で、私が引き寄せていただける幸いを覚えたい。
シャローム