「ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。」 ヘブル人への手紙 10章3節

律法は、イエス・キリストの十字架による救いの影です。
来るべきものの影にしか過ぎません。
ですから律法によるいけにえを捧げる儀式は、毎年おこなわなければならないのです。
しかも、毎年、どれほど忠実に誠実におこなっても、私の罪を取り除くことはできないのです。

1節では、完全にすることができませんとあります。
罪が赦されたとは、完全にきよめられ、清算されて、初めて赦されたのだと言えるのです。
しかし、祭司によるいけにえは、初めから完全ではないことが分かっているので、毎年おこなうことが定められています。
さらには、いけにえをささげた人は、罪が赦されてもう思い出さなくなるのが、本当の赦しです。

しかし、いけにえの儀式ではそれはかないません。
むしろ、そうむしろ、いけにえをささげておこなうたびに、私は、私の罪を思い出すのです。

しかし、それは悪いことばかりでもありません。
罪、それも自分の罪を思い出すと言うことは、罪に敏感になり、神の赦しを切実に求める心を生み出すからです。
その結果、私の行動、生き方も変わります。

罪を意識し、より敏感に意識して認めるところから悔い改めが始まり、神を求めるからです。
そしてそこから十字架の贖いによって、完全に赦されていることを確信し、もはや罪を思い出して苦しめられることがありません。
イエス様の救いは、影ではなく受け取るべき実物なのです。
シャローム