「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」 ヘブル人への手紙 9章22節

ひとつ前の21節では、礼拝に用いる用具にも血を振りかけることが記されています。
用具でさえ血を振りかけなければきよくすることはできません。
それも律法できよいと認定されたいけにえの血によらなければならないのです。
それなので、私の罪のためにはもちろんきよい血が流されなければなりません。

罪のきよめには犠牲が必要。
水では洗い流せません。
血が流れるところを私たちは汚れたと、考えがちですが、違うのです。
血の犠牲がなければ、罪の汚れは洗い流せないのです。

しかし律法による規定では、大祭司によって、いけにえの血がささげられても、それは私の罪をきよくしたとするだけで、本当に罪が赦されるのではないことは明確です。
ですから繰り返し、毎年おこなうのです。
毎年、私の身代わりにいけにえの血が流される必要があるのです。
繰り返し繰り返し。

なによりも、私は自分の罪の赦しのために自分の血を流して、自分をきよくすることができません。
律法が示すのは、私が罪人であることですから、罪人の血は、きよいいけにえの血にはならないからです。
どんなに頑張っても、善行を積み、修業をしても、罪人の血は罪の汚れを持ったままです。
ですからいけにえを必要としました。私の身代わりです。

それなので本当の赦しのためには、罪のないイエス様の血が必要なのです。
イエス様は、いけにえの血を必要としません。繰り返す必要もありません。
ただ一度、一度きり。
あの十字架の上で流された血が、私の血をきよくしてくださるのです。

身代わりに血が流されなければならないことを、もう一度深く覚えたい朝出す。
シャローム