「「なぜあなたは、 私たちが断食をしたのに、ご覧にならず、 自らを戒めたのに、 認めてくださらないのですか。」 見よ
あなたがたは 断食の日に自分の好むことをし、 あなたがたの労働者をみな、追い立てる。」イザヤ書 58章3節
この節の、前半は民の訴えであり、後半は神の答えです。
民は、自分たちが断食をして主に祈っているのに、主が答えてくださらないことを、訴えています。
自らを戒めたとは、律法を学んで、律法に従って生活をしていたとの訴えです。
断食をしたとは、律法の定めに従って、断食をいつもおこなってきたとの訴えです。
民は、このように守っているのに、神が答えてくださらないと、訴えるわけです。
ここに問題があります。
彼らは、自分たちの断食や礼拝が形だけのものになっていることに気がついていません。
自分たちの行いの偽善性に気がついていないのです。
後半の神の答えは、彼らの罪を指摘します。
断食は形ばかりで、実は断食の間も自分の好きなことをしているのです。
また、断食をするために、他の労働者が苦しい働きを強いられているのです。
見よとは、この偽善を見て、悔い改めよとの告発です。
この罪に気がつき、悔い改めたときに、神は豊かに答えてくださり、祝福してくださるのです。
神への訴えは、自分自身の罪を告発しているのです。
神は、完全な愛とあわれみの目を私に注いでいてくださるのです。ご覧になっていないことなどありません。
シャローム