「その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる。」 民数記 35章28節

殺人、過失致死を犯した者へのさばきについて記します。その上で、被害者の関係者が復讐を果たした場合におこなうさばきにも言及します。
さばきには「逃れの町」という特別な恩赦の町が備えられています。
復讐が復讐を呼ぶことをあらかじめ避けるための町であり、さばきは主がおこなわれる特権事項であり、同時に主には赦すことができることを教えます。
人が決して許さないと考えても、そこには主の赦しが備わっているのです。

そして、ここにある大祭司の死によって赦されて、自分の所有地に帰る、即ち、無罪となることが示されます。
大祭司の死は、究極的にイエス・キリストの十字架の死を示します。
贖いの死なのです。
何故、大祭司が死ねば、赦されるのか。それは理屈ではなく、主のあわれみがそこに示されているからです。

大祭司と殺人者(この場合は復讐者)が関係があるのでしょうか。
関係はありません。関係は主が結ばれて、そのように定められたということです。
ですから、復讐者と関係がない大祭司が死ぬことで赦されるのは、主が、あわれみの心によってそのように定められて与えてくださったからです。
その1点であり、それが絶対的な力なのです。

私のためには、既に真の大祭司であるイエス様が死んでくださいました。私は、赦されることを信じるだけでその恵みを受け取ります。
ここ28節には、そのひな型が示されています。
あなたも、私もここ28節で示された「その殺人者は自分の所有地に帰ることができる」その人です。

シャローム