「宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。」マラキ書 1章1節 (2017新改訳)
聖書66巻から1つの書を選び、その書を紹介しながら「みことば」を味わっていきます。
66巻をゆっくり読み進めながら、聖書に記された神様の愛について味わっていきます。
今日開いたのは、マラキ書です。
マラキは旧約時代の最後の預言者です。
そして1章8節には「総督」と言う言葉が登場していますから、捕囚後の時代がマラキが預言者として活躍をしたと、考えられます。
ハガイ、ゼカリヤからは、5,60年後の時代と思われます。
この時代、礼拝は形ばかりで空虚なものとなり、神への献げ物も軽視されています。
そして男たちは、異教の女性を妻にするなどして、神に背き、神の名を冒涜していたのです。
そんな中で、マラキは預言者として語ります。
神への悔い改めへの招き、さばきの預言が記されます。
特徴の一つは、神と民の対話の形式をとって記されることです。
選びました1章1節は、その対話が始まる最初のことばとも言えます。
「宣告」とは、神に愛されている民であるにも関わらず、神に背き礼拝をもいい加減にしているイスラエルの民に対する宣告です。
即ちそれはさばきの宣告であることは確かなのです。
しかし、同時にイエス様が登場する前に活躍をする新約のエリヤであるバプテスマのヨハネの預言が最後に記されるとおり、この宣告は赦しの宣告が、さばきの後に与えられるという、主のあわれみ深いご性質と行動が記されていることばでもあります。
宣告をさばきの宣告と受け取り絶望するのか、宣告は赦しをも含んでいると受け止めて、主の前に悔い改めて進み出るのかどうかが、問われます。
終わりの4章5節には「エリヤ」の再来について記されますが、これはバプテスマのヨハネの誕生と活動の開始によって実現します。
マラキ書は、旧約聖書の最後に収められていますが、その預言のことばはそのまま新約聖書に繋がっていくのです。
シャローム