「そしてダビデに言った。「おまえは私より正しい。私に良くしてくれたのに、私はおまえに悪い仕打ちをした。」サムエル記 第1 24章17節 (2017新改訳)

ダビデはサウル王を確実に殺す機会を得ました。ダビデに従う部下からも、サウルを討つための絶好の機会だと、促されるのです。
しかしダビデはサウルに手をかけません。
そしてサウルに、自分はサウル王に決して悪いことをしないことを訴え、証しするのです。

ダビデの話を聞いたサウルは、16節から19節で、自分が間違っていたことを口にします。
そして主がダビデを祝福してくださることを語ります。
サウル王の言葉を読むと、彼は、自分の非を認めて、もうダビデに悪を行わないと、約束していると、思えます。

しかし、この後も何度もサウルはダビデを裏切り、ダビデに悪を行います。

ここ17節に、サウルの心がよく現れています。
ダビデが正しく行い、自分を殺そうとしなかったことは、否定できません。
そして自分が、そんなダビデを殺そうとしたことも、隠せないのです。
しかしサウルは、酢の前に悔い改めていないのです。
感情的に、悪いことをしてしまったと、反省のそぶりは見せますが、悔い改めて、正しいことをする覚悟がありません。

ダビデは、自分の命の危険が続くと言う犠牲を払って、主の前に正しいことをします。
しかしサウルは、犠牲を払うことなく、口先だけでダビデに応えるのみです。
サウルは、このときダビデに対して「正しい、よくしてくれた、良いことをしてくれた」と、何度も繰り返します。
しかし、自分は主の前に、ダビデに手を掛けないとは語らないのです。

良いことは、自分にとっても、相手にとっても良いこととは、悔い改めた時から始まるのです。
悔い改めは、行動です。
言葉にするのであれば、それが形になって、行動にならなければならないのです。
ダビデのように、手を掛けないと、言葉にしたならばそれを実践し続け、部下にも守らせるのです。
そう、ダビデは自分の言葉に責任を持ち、サウルは次々と言葉を並べるだけなのです。

義の方、正しい方である主イエスの前で、私は良いことをしたいのです。
シャローム