「それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。」ヘブル人への手紙 9章25節 (2017新改訳)
主なる神が定められた通りに造られたイスラエルの幕屋(礼拝所)には、祭司しか入ることが許されない聖所がありました。
更にその奥には、1年に一度、大祭司しか入ることが許されていない至聖所がありました。
そこに入る時には、大祭司はいけにえの血を携えて入ります。
自分の罪をきよめることを示すいけにえの血を流してから、民の罪をきよめるためにやはりいけにえの血を携えて入ります。
毎年、繰り返さなければならないのです。
私たちは罪人なので、誰一人として勝手に神に近づくことはできませんし、自分自身で罪ときよめることもできません。
毎年、いけにえの血を流さなければならないのです。
しかしそれはあくまでもしかるべき時まで続ける「ひな型」なのです。
真のいけにえが現れて、献げられるまで、繰り返される型でした。
しかも大祭司は自分の血を流していけにえにはできませんでした。大祭司もまた罪があり、血を流せば死んでしまってそれで終わってしまうからです。
しかしただ一人、人となって生れてくださった御子イエスだけがそれとは違う存在でした。
イエス様は、私たちを罪から救い出し、神の子どもとしてくださるために、ご自分の罪のない命をいけにえとして献げてくださったのです・
ただ一度だけ。
毎年繰り返す必要などありません。
完全な聖いいけにえが、私のために、私たちのために献げられたのです。
イエス様の私に対する愛が、他のものの血ではなく、ご自分の血を犠牲として流すことを選ばれ、喜ばれたのです。
イエス様のいけにえは、イエス様の私への愛が形になったものです。
それを見たので、私は神様の愛を知りました。
シャローム