「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」コリント人への手紙 第2 12章10節

この第2の手紙は、かなり特別な手紙だと感じます。
ここ12章では、パウロはコリントにいる偽教師たちがパウロに対して非難する言葉を、そのまま受け止めて反論するのではなく、それがそのままキリストの愛と宣教の業なのだと語ります。
教会から「盗んでいる」「搾取している」と、批判されれば、コリントの教会には何も負担を掛けないで働いたことがあなた方にとってパウロの「不正」になっていることを赦してくださいと、語ります。
パウロには何の特別な力はないと、その通りだと、非難されれば答えます。
天の御国の様子を垣間見る特別な機会を与えられたけれども、それを語ると、教会の皆が過大に評価するといけないから誇ることは控えていると語ります。
このような表現が続くので、特別な手紙だと感じます。

そして、自分にはすが与えた「とげ」がある、弱いところがあると証します。
それは目の病気であったかもしれませんが、外見上、一緒に生活すると分かるものでした。
ですから、パウロはそれを誇ります。
とげがあり、弱さがあるけれど、主が十分に恵みを与えていると教えてくださっているからだと、証しします。
また、パウロほ弱さや迫害、困難を経験した人はいません。
偽教師からの侮辱も甘んじて受けてきました。
それは誰の目にも明らかなものでした。
偽教師は、言葉ばかり、口先だけで自分を誇り、パウロを非難しています。

しかし、パウロはその行動で主の使徒として、証し人として歩みました。人々の目に明らかです。誤魔化しはありません。
弱さも、困難も、侮辱もありますが、そんな弱さの内に、キリストの恵みと力が働いてくださっていることをパウロは知っているのです。

パウロが誇るのは、キリストのみです。
キリストの愛の大きさとそこに働く御力を誇ります。
自分が、弱く小さい存在だけれども、キリストに愛されていることを誇ります。
弱さを認める人は、キリストの強さを証しします。
キリストが愛してくださることを喜び証しします。

自分を誇る人となるのか、キリストを誇る人となるのか、私は、キリストを誇ります。

シャローム