おはようございます。
今日から、出かけてメールのHPの更新ができないと思いますので、前もって日曜日の分まで一緒にアップをさせていただきます。
よろしくお願いします。
榊原

26日 金曜日
「愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。この手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。」ペテロの手紙 第2 3章1節 (2017新改訳)

二通目の手紙の最後になり、ペテロは「愛する者たち」と、4度呼びかけます。
そして惑わされないで、記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのだと、語りました。
この箇所を今日読んだ時に、感じ、分かったことがあります。
この手紙は、神様が私たちを愛して、記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいと、書き送ってくださった二通目なのだと、知りました。
一通目は、イエス様の誕生と十字架の死とよみがえりによって、届けられていました。
信じることができた私たち、イエス様と出会うことができた私は、本当に愛されているのです。
素晴らしい恵みを受け取っているのですと、確認しました。
「記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたい」
私たちはいつも、この声を聞いていなければいけないと、思いました。

手紙を送ってくださったイエス様と再会するその日まで、私たちは祈り、みことばに素直に聞き従いながら成長し、互いに励ましあって生きるのです。
主イエスは、今日も貴方に「愛する者」と、呼びかけていてくださるのです。
だから眠ったままの心と耳ではなく、ちゃんと「記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたい」との声を受け取っていきたい。
シャローム

27日土曜日
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」ヨハネの手紙 第1 1章1節 (2017新改訳)

あのイエス様に愛された弟子と呼ばれ、今は、教会の指導者となっているヨハネが書きました。
大きく二つのことを手紙の最初に書き記し、ヨハネの信仰告白、根幹を明らかにしています。

一つ目。
「初めからあったもの」
イエス様が、真の神であり、父なる神、聖霊なる神と、同一の方であることを示します。
初めからとは、創世記1章1節、天地創造の初めからと言うこと。
なにもない時に、神だけが存在しておられた、その時に、イエス様も存在しておられた。
そして天地創造をされた方と言うこと。

二つ目。
「自分の手でさわったもの」
イエス様が、実際に地上に来られて、真の神が完全に人となって生れ、ヨハネたちと一緒に生活してくださったこと。
ガリラヤ湖でエルサレムで一緒に歩んでくださったイエス様は、幻や仮の姿ではなく、神であり人であった方。
私たちを愛してくださった方。
ヨハネは一緒に食事をし、その手に触れることができたのだと告白します。
聞いた。見た。さわった。と。

この方はことばそのものです。
ですから今、私たちがこうして聖書のみことばを読んで信じる時、私たちはイエス様とお会いし、見て、聞いて、さわっているのと同じなのです。
ヨハネと同じ恵みを受け取り、感動を受け取っているのです。
シャローム

28日 日曜日
「神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエス様が歩まれたように歩まなければなりません。」ヨハネの手紙 第1 2章6節 (2017新改訳)

私たちが生きるのに信仰は、神様は必要でしょうか。
答えは明確です。必要です。
そして信じるとは、生活、生きることと切り離すことはないのです。

イエス・キリストを信じた人は、信じた瞬間に神の愛のうちに留まる人へと、変わりました。
造り変えられたのです。
信じたけれど、信じる前と同じ、生き方、歩み方をすると言うことはできません。
信じたなら、イエス様がこの地上で歩まれた足跡に倣って、歩まなければ意味がありません。

生きることはキリスト。
信じることは生きること。
キリストの愛の歩みに倣い、後を追い、御国と言うゴールに真っ直ぐに走ります。

キリストの愛の中に留まるようになると、平安を得て、神と人を愛するようになるのです。
愛のない歩みにキリスト・イエスへの信仰は見えません。
既に、造り変えられた信仰者は、キリストの愛のうちに留まり、キリストの愛に倣う人になっています。
ヨハネはそれを自分の告白として私たちに教えてくれるのです。

私は今、神の愛のうちに留まっているのだと言うことを、もう一度、深く確信し喜びたい。
シャローム