「彼は全焼のささげ物と、穀物のささげ物を焼いて煙にし、注ぎのささげ物を注ぎ、自分のための交わりのいけにえの血をこの祭壇に振りかけた。」列王記 第二 16章13節
「自分のため」王は、偶像の神々にいけにえを捧げ、これを拝むためにアッシリアにある偶像の神殿をそっくり真似た場所を作り、主の宮の道具を捨て去り、偶像を崇めたのです。
ダビデ王のように主の目にかなうことは行わなかったばかりか、主の前に非常に大きな罪を行ったのです。
自分のために、礼拝をすることは正しいことのように聞こえますが違うのです。
いけにえをささげるから、私が幸いになれるのではないのです。
主が、私のために恵みを与え、祝福を与えてくださり、礼拝することも与えてくださっているのです。
主からの幸いが先にあるから礼拝します。
自分のためにではなく、私のために全ての恵を備えてくださった主に仕えるために礼拝するのです。
礼拝できることも恵みとして与えられているのです。
それに対して、偶像の神々は、その刻んだ像も、自分のためにと人が作り、偶像の神々を作り上げ、自分のためにいけにえを捧げて崇めているのです。
初めから終わりまで自分のためだけです。
でも、そこには実体もなければ祝福も平安もありません。
しかし私たちには主に招かれた実体のある祝福のある礼拝の場があります。
献げるのはいけにえの動物や物ではなく、主の前に砕かれた私の心です。
主のためにと心に刻みたい。
シャローム