「ヤコブの家よ、私に聞け。 イスラエルのすべての残りの者よ。 胎内にいたときから担がれ、 生まれる前から運ばれた者よ。」イザヤ書 46章3節

 1節、2節で、イスラエルを苦しめたバビロンも、やがてペルシアに滅ぼされて、人々は、載せられ、運ばれて捕らわれの身となっていくことが示されます。
 その載せられ、運ばれと言う言葉に対応して3節は語られます。

 イスラエルが苦しめられたときにも、信仰を守り通した「残りの者」は、主が守り導いてくださるのです。
 それどころか、その人は、母の胎内にいたときから、主の目が注がれていて、支えられてきたことを示します。
 バビロンの偶像の神々の像は、家畜が引く車に乗せられて運ばれるばかりでした。

 しかし、真の神である主は、イスラエルの民が誕生するその前から、民を運び、守ってくださる方なのです。
 私たちは、私たちが主を意識する前から、愛され守られているのです。

 偽物の神々は、人が人の手で運びます。
 そしてその神々は、ものを言いません。
 それとは違って、真の神、主は、人を守り運んでくださる方です。
 そして私に語りかけてくださるのです。
 その恵みと守りを味わう朝です。
 シャローム